出会ってよかったか悪かっただなんてすぐにわかりっこない
そう
すぐになんてわかるはずがない
すぐに
わかることなんてできない
どうして今更になって後悔するのだろうか
MAID―メイド―
"お帰り下さいませんか?"
最近、日課が増えた。
前の日課は朝起きてメイド服に着替えて朝飯たべて掃除して…そんな平凡で、それでいて自分の惨めさにため息をつきたくなるようなこと
ばかりしてきたけど。
この日課はちょいと違う。
カズキ様のいない日の昼休みは長い。
昼休みどころか全体的に休みのようなものだが…まあ、一応メイド長であるナグラの決めたちゃんとした昼休み。
配られた昼食用のパンと牛乳を片手に裏庭へ向かう。まずコレが一つ目の日課である。
そして裏庭に座って、ポケットから取り出したるはシンプルな黒の携帯電話。
ぱかりと開けるとすでにメールが届いていて、それを嬉々として開くのが俺の新しい日課二つ目だ。
相手はもちろんシンヤ様、だ。
メールでの俺は一応シンヤ様のことを「ウエダ」と読んでいるし敬語も使っていない。
携帯電話を渡されてからしばらくの時が過ぎ、最初こそ渋っていた俺も今は随分と図々しいものですっかりそれに慣れてしまっている。
ホントこのことがばれたらナグラに殺されかねないな…いや確実に殺されるだろう。
会話の内容はほとんどがシンヤ様―ウエダの書いた小説のことだった。
ウエダの書く小説。
これを読むのが俺の日課三つ目。
内容は官能小説。高校生の時から大好きなんだそうだ…まあ気持ちはわからないことはない。うん。
悲運の主人公―"館主"―が、ある日とある事情でメイドであるはずの男に犯されてしまい、それをネタに主従関係が逆転。
それによって友人をなくしたり人間として、"館主"としてのプライドを傷つけられ、絶望していく。
ちなみに現在報われる感じがしない展開になっている…がこれがなかなか面白い。
男性との性交を勧める業界―もちろんメイドと"館主"だけの話だが―の出すゲイ小説とは比べ物にならないし、ぶっちゃけ
官能小説とはいってもエロシーンがさほどないし。省かれているだけで物語上はされてるんだけど。
主人公の苦悩について考えるのはなかなか楽しかった。
最近は送られてくる小説を一読者として待ち、読んでからウエダに感想メールを送るのが何よりの楽しみだ。
ウエダはあの時俺に携帯電話を渡してくれた。
それが俺にどれくらいの影響を与えたか。
それは表現しきれないくらいの…
「ゴルちゃん」
「…」
「ゴルちゃん」
「…」
「ごーるーちゃんっ」
「おいいい加減にせんとケツん中ビッグマグナム打ちこんだるどボケェ」
ああもう。浸ってんのにチクショウ。
確かに日課が増えて俺の毎日は大分変わったけど、だけど変わるたびに現実に引き戻してくれる人がいる。…もちろん、ヨシダさん。
レッドではない、ヨシダさんは最近とにかく絡んでくるようになった。
「嫉妬や嫉妬。レッドさんは寂しいんやって、ご主人様も帰ってこないしぃ、相手にしてくれる人他にいないしぃ」
「ジュンちゃん!!ああもう黙っといてよあほ!!ちが…っ違うからなゴルゴ!おま、カンチガイするんやないぞ!」
相変わらずこの人たちは楽しそうだ。
はあ、とため息をつくとそれまでは楽しそうにからかいあってたのにこちらを睨んでくる様を見ると、本当にそう思う。
この人たちホント好き勝手に生きてんだよ、絶対…
この館に使用人…メイドとして働いている人の大半は、実はこれ変わった人たちばかりで。
最初はレッドやナグラばかりがおかしいのかと思っていたけど、しばらく経つと回りも十分変わっているということに気付かされる。
前にナグラが言っていた通り、ここに来る連中のほとんどが前の屋敷でなんらかの事件に巻き込まれたり
妙なご主人様に出会ってしまったがためにひどい目にあった連中ばかりなのだそうだ。
特に後者。
こんなご時世だから、様々な性癖を持つ人物はいるだろうがこりゃあないぜといった内容の"館主"がいるらしい。
ここにメイドの新人として雇われたのは俺が始めてかもしれない。ナグラがいつか言った。
大体、カズキ様は滅多にメイド募集の広告を出さないらしく入ってくるメイドの数も少ない方らしいのだけれど。
金銭難の"館主"ならともかく、カズキ様ほどの財力を持った"館主"が?と考えることが前提だが。
とにかく、ここに来るのはそんな偶然求人雑誌に書かれた小さな小さな募集広告を読んで来たものたちで。
メイドに就職するものは高校、あるいは中学を卒業した後すぐに就職するから、市役所やハロー○ークに登録された館へと割り振られる。
それらに登録していないカズキ様の館には自然と「メイド経験初めて」の者が来ることがなくなる、ということだ。
「ハツモノはほんまなら上物として歓迎されるんやけどな、あの人はほら。ちょっと変わってるから」
トイレで一服している時ナグラがそう一言添えて教えてくれた事だ。なるほど、とその一言で理解してしまうのが今の俺である。
「でもあれやな、すっかりゴルちゃんもここのメンバーやな」
いつものように洗濯物をタンスにしまっていると、ふとレッドが呟くように言った。
ナグラはその一言を聞くと不服そうに目を細め「そうかぁ?」と返したが、俺は…内心どきりとしたのを隠すのに夢中。
こう、突然嬉しいようなことを言われるととんでもなく慌てるのは何故だろう…永遠の不思議だ。
「だってなぁ、ジュンちゃんにもうほとんどのことは教えてもらったやろ?それに俺がキスしたくらいじゃあんま動じんように
なってきたし?後調子乗らんようになってきた」
きっと後者がメインだ。
「まあそれはいえてるな」
絶対後者に対してのコメントだ。
俺がむっつり顔で苦笑いしていると二人はさぞ嬉しそうににんまりと笑みを浮かべる。
そんなに楽しいだろうか人をおちょくるのが。…うん、楽しいんだよな。この人たちは。
「けどホンマの話な。ゴルちゃんほんまええこになったわぁ」
「はいはいありがとうございます…」
「ほんまやでぇ」
そういってへらりと笑う顔を見ても、どう信じればいいんだろう。
仕方が無いから一言適当に答えてやった。
「俺もレッドに会えてよかったと思うよ」
思いっきりの嫌味をこめての一言。
だった。
「…」
考える。
考える。
ひたすらに、考える。
(うわぁ…つーか…あーくそ…)
無駄に熱くなる顔を抑えてうずくまった。
かつてウエダが他所のメイドと"館主"の関係から友人という関係になった場所―館の裏庭は相変わらず人気もなく、寒々しい。
相変わらず寂しいここにいると気持ちが寂しくなることはわかっているのに、いつの間にかここに来てしまう事がある。
メールチェックするためであり、時折一人になりたい時の為の隠れ場所。
他の館よりも少ないといってもどこへ行こうが、館内だと誰かに会ってしまうし、誰も来ないといっても噴水はあまりにリスクが高い。
もしカズキ様やその他の"館主"様に見られでもしたらどんな事をされるかわからない。
……話は逸れたが、とにかく俺は例の如く逃げるようにここにやって来てしまった。
言葉の通りどこに言ったかもばれないように、全速力で。
『俺もレッドに会えてよかったと思うよ』
何の気兼ねなしに言った一言だった。
別に何も考えていなかったし、本当に俺はそう思っていたから素直に口に表しただけだったのだ。
ウエダと会えた事やここのメイド達に出会えた事、厳しくいながらも優しさを垣間見せるナグラに出逢えた事も何もかもが
今はよかったと思える。それだけ。
カズキ様やマサカズ様との出会いは様々な意味での衝撃や悲しみ、絶望感を感じさせられることもあったからそれをよかったと
素直に言うことはできない。
しかし、確実に。
確実に、メイドの中でも、今まで出会った人々の中でもレッドと出会ってよかったと思えている自分がいる。
だから、だから、だから。
(本当に会えて良かった)
最初はメイドに対しての恐怖を俺に植え付ける原因ともなった人物だった。
白痴のフリしてカズキ様にいいこいいこしてもらっているのを見て最悪だと思った、それでもって本性がヤクザだとしった時も最悪だと
思った、何もかもが最悪。
ナグラとつるんで三人でくっちゃべってる時は楽しかったけど、何かといちいちいちゃもんつけてくるわ脅してくるわ。
人間としてはあまり褒められたような人物じゃあない。
でも、レッドやナグラという人物に出逢わなかったら俺はもうとっくに メイド という国公認の性処理用ペットとして
堕ちていただろう。
その感謝の気持ちもある。
それ以上に何故か彼と出会えてよかったと、思う瞬間がある。
(みんなと出会えてよかった。みんなと出会えたから俺は今、俺としてここにいられる)
でもまさか、そんな
「や、やめてや……そんな、こと……急にい、いわ、んで、よ」
顔を真っ赤に染めて男は言った。
小さな目が潤み出して、揺れる黒目を追ってもとても追いつけない。
なんで急にこうなるんだ。
演技力か?
そう思って訝しげにそれを見ても、レッドはその目からそれを落すことはなかった。
ふるふると震える目を追っても涙が出ることはない。
もし演技だとしたらこの狡猾な男はぼろぼろと大きな涙を流して俺に言うだろう。「ありがとうありがとう」
しかしどうだろう、この男はこともあろうに涙をガマンしているんじゃなかろうか。
この男が?
なんで、急にこんな、ことに。
「俺なんか……お、れ…・…なんかと……」
ナグラが目をひん剥いた。
いつもここで冷静にレッドにツッコミを入れているであろう彼が、同じく体を震わせて何も言えなくなってしまっていたのだ。
どうしてだろう。
俺の一言は何かまずいことだったのだろうか。
また調子に乗っていけない一言を言ってしまったのだろうか。
「ありがとう」
それでも、レッドの口から出た一言が俺の考えを即座に否定してくれた。
だけど答えなんて一向にでやしない。その一言のせいで余計こんがらがってしまった。
気付くと俺は逃げていた。
急に恥ずかしくなってきて、もうなんだか居た堪れない気持ちになってしまって、夢中で駆け出している自分さえわからない。
秘密の逃げ場所にやってきたところで気持ちが落ち着くわけなく、座り込むとただただ熱くなっていく体を抱え込んだ。
未だわかっていないことがある。
どうしてレッドが白痴のフリをしているのか。
本人もそして長い付き合いであるナグラも、これだけは決して詳細を語ろうとしない。
そしてどうして俺は"ゴルゴ"と名付けられたのか、そのこととレッドが俺に本性を暴くのに何か繋がりがあるのかもしれない。
そう、彼らには未だわからない謎がたくさんある。
べらべらと業界についてや人生について説明してくるナグラでさえ語ろうとしないのだ。
きっと今回のこともこれらの謎に関係があるのだろう。
それなら早くその謎とやらを話して欲しい。
じゃなきゃ、どうして泣きながら「ありがとう」なんて言われたのか納得できる答えなんて得られそうにない。
ああもう。
わけがわからなくなってごちゃごちゃと考えてしまうじゃないか。
「はー……ッんだよ、チクショー……」
わけがわからない。
簡単な意味でも、深い意味でも。わけがわからない。
「……郵便物チェック、いこ……」
見上げた空はやはり灰色で俺を押し潰さんとする雲が今にも落ちてきそうな低い場所に、ぶかぶかと浮かんでいる。
恥ずかしさと意味不明さでくちゃくちゃの頭を掻き毟り、立ち上がった。
今はどうやってこの体の熱さを発散するかが重要。
そう勝手に決め付けた。
郵便受けにはすでに一つも郵便物は入っていなかった。どうやら誰かがすでにチェックし終えたらしい。
噴水も雑ながら掃除を終えたらしく、薄い氷が所々に出来ていた。
カズキ様がいなくても、スローペースではあるがこの館は動き続ける。
時間の流れなど関係なく24時間を、ゆっくりゆっくりと「変化」というよりは「静止」するために動く。
そういえば、この館は思えば静止するために動いているような気がする。
まだ落ち着かない気持ちを何とか静めようと再び門にもたれかかりながら座ると、何の気もなしにそんなことを考えた。
非常にどうでもいいことだ。
大体どこでも同じだろう、そんなの。掃除は汚くならないように、現状維持のためにするものだ。
「なんか……すげぇなー……」
時間を気にせずここで暮らしていたが、ずいぶんな時間が経っていたらしい。
おいおいそれいつ気がついたことだよ、とっくの昔にわかってたじゃないかと思いつつもふと思い出すときがある。
時々ではあるが体内の中の時計が昔通りに動き出すことがある、と言えばわかりやすいだろうか。
だらだらと過ごしている自分への焦り、どこか夏休みを平凡に過ごしているうちにふと気付いたらああもう1日しかない!と
気付いた時の、あの感覚。
レッドに対しての気持ちもそれと同じく、この館にいると全然変わっていないように思えてしまうのだが
こうしてふとしたことで気付くと案外激しい動きを見せていたことがわかる。
友人。
きっと、そうだ。そうに違いない。
友人としての親しみが深まった。そういうことだろう。
気付くたびに言い訳をする。
何故かもう一人の自分が「情けない」と嘆息するのが、どうしてかわからない。
きっと深層心理ではわかっているんだ。
何かをわかっているのにわかろうとしていなかったり、ただ単純に自分が気付いていなかったりする。
(鈍感)
そう自分につっこんだ途端、急に気持ちが冷めてきた。
それでも顔は赤い。熱い。
どうしてしまったんだろう、俺は。
俺は……
「あの……君は、ここのメイドさん、かな」
体育座りをして顔を伏せっていると、ふと頭の上から誰かの声が降り注いできた。
どきり、と心臓が激しく鳴って体が揺れ、顔が急に熱くなって思わず上ずった声で「ハイ!」と答えてしまう。
……どうやら眠ってしまっていたらしい、慌てて立ち上がろうとしたのだが体がうまく動かずこけてしまった。
体が冷たい、のに顔だけやたら熱くなって変になりそうだったがどうにか自分を落ち着かせて後ろを振り向く。
門の向こうには男性が一人。
スーツの上に黒いコートを羽織り、アタックケースを片手に持つその男は、不安げな表情をしながら俺の次の行動を待っている。
というか扉を開けてもらうのを待っているんだろうけど。
反射的に門を開けようとしたが、一瞬それを躊躇した。
きょろきょろと辺りを見回す挙動不審な様子からセールスマンではないと思えるが、だからと言って"館主"というわけでもないようだ。
これは俺の勝手な予測だが、もし"館主"だとしても彼はあまり力を持った"館主"ではないだろう。
カズキ様を始めテルヨシ様やシンヤ様と同じような堂々とした雰囲気が見られない。マサカズ様は堂々しすぎてるけど。
彼らと同じ財力を持った"館主"だったらメイド相手にこんなに挙動不審になる必要はない。
つまりはメイドに慣れていないか……もしくは。
俺にはもしくはの先はわからなかったけど。
失礼だとは思ったが、とりあえず予測だけで行動するのもどうだろうと思い、思い切って聞いた。
「あの……どなた様でしょうか。カズキ様のお知り合いの方で?」
「え、あ、いや。オオタケ社長じゃなくて、その。メイドに……」
「メイド、ですか?でしたら俺が用件を承りますが」
「い、いや!実際に合わせてほしいんだ!」
なんだ、この男は。
明らかに不審人物。
だが俺だけの判断で追い返すわけにはいかない、カズキ様は不在だからせめてメイド長であるナグラに聞かなければ。
今ナグラと会うのはどこか気まずい気持ちがあったが、仕方が無い。
(くそ、今日って日は……)
この客には少し待ってもらってとりあえずナグラに連絡をしなければ。
そう思い、俺が口を開こうとしたときだった。
「……ケン」
「……はい?」
「ケン!!ケン!!いるんだろ、ケン!!出てきてくれ、ケン!!」
びいん
耳が痛くなるほどの大声でその男が喚きだしたのだ。
慌てて俺が止めようとするも男は無視してあっという間に喉が潰れてしまいそうな声で喚きちらし続ける。
「ケン!!俺だよ!タイゾーだよ!!!迎えに着たんだ、ほら!!お金だって持ってきた!
こんなキチガイの館に囚われることはない!!早く行こう!!」
「やめ、やめてください!!警察を……っ!!」
携帯電話を取り出そうとして、ハッとした。
危ないところだった、ついつい警察なんかこれで呼びなんかしたらウエダとの関係がばれてしまう。
だからといってこのまま放っておくわけにもいかない。
今は喚いているだけだからいいが―何せここは人里離れた変わり者の館だが―この様子だと何をしでかすかわからないだろう。
「そうだベル……ッ!!」
俺が直したベル。
がしゃがしゃと動物園のゴリラの如く暴れだす男から一旦離れ、門の端に走り柵と柵の間から手を差し入れ客人用のそれを鳴らした。
ここを押すのは初めてここに来た時と修理の時ぐらいだったのに、まさかこんな状況で使うことになるとは……
ともかくここを直しておいたことに感謝した。
「メイド長、来てください!!不審者が……とにかく早く!!」
がちがち、がちがち
館が遠すぎてこの声が届いているかどうかはわからないし、もしかしたらまた壊れてしまっているかもしれない。
不安要素を考えるたびに段々と恐ろしさが増してきて夢中になってそれを押した。
男は鬼のような形相でわけのわからないことを喚き散らしている。
ケン、それはメイド仲間のケン=ホリウチのことをいっているのだろうか?
だとしたら呼び出すわけには行かない。余計自体を悪化させてしまう気がする。
何せこの男、もう死にそうな顔でその名前を呼び続けるのだ。
異常者?
それにしても、なんでその異常者がこんなところに?
とにかく、早くメイド長!!
「お前……メイド長じゃなくて、ケンを呼べよ!!」
「よ……呼ばねーよ!!さっさと帰れ、もうすぐメイド長が来る!警察も来る!!
罪に問われたくなかったら早く……っ」
ぎろりと俺に向けられた顔、そして鋭い目。
先ほどの気弱そうな様子から一変、まるで気が狂ったように迫ってくる男。タイゾー、と言っていたか。
早く、早く、早く
タイゾーが迫ってくる。
切羽詰っているその表情には一欠けらの余裕や躊躇も見られない。
「最悪は、お前を人質に使う!!お前には悪いけどな、俺はケンに会いたいだけで」
「だ、だったら正攻法で来いよ……!!」
「うるさい!!」
ガ、と、一瞬激しい衝撃が俺を襲った。
(全く今日は最悪な日だ、本当にみんな急に変になりやがって)
レッドとナグラもそうだ。
みんなたったの一言でおかしくなってしまう。
妙な意味でデリケート。
この業界の人々は皆異常な上にデリケート。まるで精神病患者のように、腫れた部分にちょっとでも触れると癇癪を起こす。
ゆったりとした時間、いや時間さえ感じられない世界のくせに急に現実に引き戻る。
それは世界が「戻って来い」と囁くかのように、伸びてくるその手は本当は救いの手なのかもしれない。刹那という名の救いの手。
だけど振り払う、俺達は。
戻りたくないと留まるように、誤魔化すように見て見ぬ不利をしようとする。
そんな人々と、ふとそれから戻れなくなってしまって本来なら「正常」な世界に来たものが「異常」だと恐れられるのだ。
きっと彼は、いやもしかしたら彼はその正常な世界を見てきたものなのかもしれない。
戻って来れなくなった人間。
なんとなく俺はそんなことをかんがえていた。
本当はそんな余裕、ないくせに。
「う……っく!」
「ケンを……ケンを……」
涙を流す男は俺の首に手を掛けたまま涙を流している。馬鹿らしい。
顔が青ざめている。
俺が追い詰められているはずなのに、その男の方がよっぽど追い詰められている。
「ケンを……返せ……っ俺の……俺の……ったいせつ、な」
『お前と会ってよかったと思ってる』
そう言った時、本当は自分で気付いていた。自らの気持ちが口から出てしまったことに。
受け止めて、でも受け止められなくて―戻れなくて―困惑したレッドが涙を堪えるのを見て、わからないふりをした。
いやわからなかった。
わかるはずもなかった。
レッド、俺は、お前という大切な ダチ に出逢えて本当に嬉しかった。
ウエダも、ナグラも、みんなみんな。
それでも気付いたらだめなんだ。
気付いてはだめなんだ。
気付いたら終わってしまうんだ。
この世界から抜け出すために差し出された救いの手をもし取ってしまったら、戻れなくなる。
どこにいく?
この男のように、戻れない場所へ。
「やめんかボケェ!!!」
がしゃぁんと激しい音がして、途端にすうっと大量の冷たい空気が俺の喉を通っていった。
同時に肺が次から次へと息を求める。咳が何度か出た後、自然と深呼吸を始めた。
「めい……どちょ……」
ぼやける視界に彼の姿が見える。
細く皮と骨しかないような体に神経質そうなその表情、彼でしかない。
一番最初に俺が出会った時のように、余所者を否定するその顔は険しい。
あの時恐怖していたこの態度が、今はどれだけ頼もしいか。俺はこの状況に関わらず思わず軽く吹いていた。
「ナグラ……ケンに、会わせてくれ」
俺の首を絞めていたタイゾー、今はナグラに門越しに蹴りを入れられて1mほど離れた所でしりもちをついている。
その表情に生気はない。
確かに俺は今までこいつに殺されかねない状況だったはずなのに、どうしてか憎悪や嫌悪は感じられなかった。
何かこの男は違う。
不審者だとか、精神異常者だとか。それとはまた違う、ズレている気がする。
「あかん。お前の気持ちはわかるけどな、もう遅いねん」
「でも俺は!!」
「出逢えてよかったとお前は思っているかもしれんが、もうケンはそう思ってないと思うわ」
「ナグラ!! 頼む、少しだけでいい! これを見たらケンの気持ちも変わる!」
縋るように続けるタイゾーをナグラは冷たく見下す。
その顔に同情している様子などカケラも感じられない。
「あんな、オオタケのようなキチガイに囚われているケンを救い出しに来たんだ、俺は!!」
「ええ加減にしろや」
そうナグラが言ったところまでしか、覚えていない。むしろ覚えておく気がない。
後はブチ切れたナグラが門を開け、タイゾーをリンチしたぐらいだ。覚える必要がない。
気が狂ったように殴る蹴るを続けるナグラは、俺を助けに来たというよりは本当に「メイド長」としての役割を果たしに来た
という感じだった。怖い。
ナグラはカズキ様のことをなじられると激怒する。一つ勉強になった。
「タイゾー=ハラダ。以前はここの館のコックをやっていた、というか今のコックの子供だ。
本当は引き継いだんやけど仕事三年目ってところにクビになってな」
救急車に運ばれていった男を見送りながら、ナグラが語りだした。
殴りすぎで所々切り傷のできた血まみれの手でタバコを口元に運び、遠い目をしたまま思い切りそれを吸い込む。
ふう、と吹いた煙がうっすらと広がっていきやがて消えていった頃に再び口を開く。
「理由はうちのメイドに手を出したこと……ま、それがケンなんやけど。
今はなんやったかな、会社のサラリーマンやっとるとか聞いてたけどうまくいってたみたいやな。
仕事やめるときにカズキ様に「お前みたいなキチガイからケンを救う!!」だとか言ってたけど、ホンマにやりおった」
くく、と笑うが目は笑っていない。
俺は体を震わせ、恐怖を感じた。
それは目の前のナグラに対してもだがもう一つ。
(カズキ様が、あの優しいカズキ様がたったそれだけの事で解雇して……キチガイ……?)
落ちぶれたメイドに手を差し伸べるほどの人が、どうしてたった一度の過ちを許せなかったのだろう。
それにキチガイだなんて言われるまでに至るほどのなにかを、した?
考え込む俺をみて、もう一度ナグラは笑った。今度はいつもの優しいものだ。
「やーお前の大告白にはあれ、感動させてもらったわ。アイツアレでいて自分に自信がないってめんどくさい奴やから、
俺も嬉しかった。俺はケンとタイゾーのことは許せんかったけど……はは、まああの時は三人で結構仲良かったし。
でもレッドとお前が……もし、通じ合う気持ちを持っているなら応援したる。
アイツを救うにはそれしかないような気がする。
けどな、ゴルゴ」
「お前が思っている以上にカズキ様は"レッド"に固執している。同時に、"ゴルゴ"。お前も」
ぎ、と睨んでからナグラが背を向ける。
煙が空に上がっていって、消えていく様を見送っているうちにずいぶんと遠い所にそれはいってしまっていた。
小走りで追いかけると止まりもせずに一言だけナグラは言い、その後は何も言わず。
「お前に会えてよかった。俺もそう思ってる、だからこそ。
お前に会わなければ良かったと思わせるようなことだけはしないでくれ」
どういうことかさっぱりだ。
俺は確かに思ったんだ。
みんなと会えて良かったと。
(戻れない場所に……行かないためには……)
現実を見てはいけないのだろう、一瞬でも。
この世界の人間が異常に怒ったり癇癪を起こすのはきっとそこに行かないために、逆に自分の意識を保つようにするためなのだ。
マサカズ様は現実(オオタケがいないとさびしいさびしいさびしいさびしいさびしいさびしいよ)から逃れるために
そのメイドタカハシも現実(マサカズ様はきっといつか目覚めるに違いないそれまでずっとお世話を)から逃れるために
ウエダも現実( なにか )から逃れるために
ナグラも現実(カズキ様はお優しくて素晴らしい方とてもとてもとてもとても優しい)から逃れるために
レッドも現実( ゴルゴ )から逃れるために
俺もそう、逃れるために。
皆に異常といわれないために、正常にならないよういつも怯えている。
だからふと触れられた瞬間に騒いで、悲しんで、そしてそれさえ失ったとき。
現実に引き戻されてしまった時。
元の世界が進んでいることに気付いた時。
タイゾー=ハラダのように?
「出逢わなければよかった」
時遅くしていつの間にかやって来た小柄な男が呟いた。
いつになく弱気な口調で、ぼやく。
誰に言っているのだろう。
俺?かな
振り向くと、エプロンをぎゅう、と握り締めて唇を噛み締めているケンがいた。
ケンは、笑う。
引きつった笑い。
「ゴルゴ……俺、俺ね。でも、ね。俺、俺」
「すっごい好き……だった」
現実を見てはいけない。
現実に戻されてはいけない。
最初に気付いたはず。
時間さえ忘れ、給仕すればいいと。
束縛されたら自分で縄を強めなければ。
俺は現実( レッド )から逃れなければいけない。
Next....
出逢えてよかった?
初めて気付いた、ようやく気がついた
でも
気付いちゃいけなかった
出逢わなければ、よかった