もう、もうなんでもいい

どうにでもなれ



なされるがままになることも、たまにはいいことを今知った










MAID―メイド―
"お連れ下さい"











「うわぁぁ!! すげぇぇ! 見ろよレッド!! あーんなにでかいのがぐるぐる回ってるぞ?!」



周りの連中が笑っている。だけど、今の俺にはそんな微かなモノは届きはしない。

代わりに同行しているリョウやタカハシが恥ずかしがるだけで、まあ特には。


「やめて下さいよ"ゴルゴ"さん! あーもう恥ずかしいなぁぁ!」

「うわぁ! うわぁ! うわぁ!」

「だめだこりゃ……なぁんで遊園地ぐらいでこんなにはしゃげるかなぁ……」


ため息をつくふかわ、他の皆は周りの連中と同じく笑って俺のことを見ていた。





俺たちはウエダが企画した遊園地ピクニックに、それぞれ"館主"とメイド二人組で訪れている。

カズキ様は仕事の為欠席。当の本人であるウエダも急病のため欠席。

カズキ様の代わりは俺、ウエダの変わりは例のデクノボウ――ツチダ。


ウエダに至っては最後に出会ったのが一週間前。

いつも通りに連絡を取ろうと何度もメールを送ったのだが返信は全くない。

何かと思っていたが、アリタが言うにはウエダは多忙すぎる生活のせいで倒れてしまったらしい。

今は自宅で療養中とのこと。


アリタとツチダはこの遊園地への参加を断ろうとしたのだが、ウエダが言ってきてくれと言ったのだそうだ。

いかにもウエダらしいとは思うが、久々に会えると思っていた身としては微妙な話。

と、ウエダ家の使用人であるタケヤマが運転する車の中では考えていたのだが。





見たこともないほどの速さで上がったり下がったり、一回転したりする乗り物。

ぐるぐると回転を繰り返す大きなティーカップ。

馬や馬車が上下したりしながら、きらびやかな音楽と共にこれまたゆるやかに回転している乗り物。

他にもたくさんの乗り物が、子供達の笑い声を乗せて光り輝いている。

ぴかぴか、きらきら、昔読んだ絵本の表現は間違っていなかったのだと確信させられるのだ。


遊園地。

子供の頃、いやこの人生で一度も実際に目にしたことのなかった夢の国を前に俺の不安や心配なんかは全部吹き飛んでしまった。

ウエダには悪いと思う。悪いとは、思っている……そう、思っているのだけれども。




「ゴルちゃぁん、あんまはしゃいでるとコケるでぇ」

「すげぇすげっ」

「ああっ」


コケるほど喜んでいる自分がいる。









「そっか、"ゴルゴ"は遊園地に来たことがないんだ」


テルヨシ様が微笑む。あまりにも優しいその顔に、思わず気恥ずかしくなって「ははは」と笑ってしまった。



「オオタケとウエダがいないんじゃあなぁ」とタカハシを引き連れて隣の映画館に行ってしまったマサカズ様と別れ、

テルヨシ様とリョウ、俺とレッドとウエダ家のメイドの六人は適当にぶらぶらと遊園地を歩き回っている。

俺は今すぐにでも駆け出して乗り物に飛びつきたかったのだが、もう慣れているらしい他の五人の様子を見るとそれもできず。

それでもそわそわが止まらない俺を見て、テルヨシ様が笑うばかり。



「はい、なんていうかその……うち、本当に貧乏だったんで」

「それじゃあ今日は十分に楽しむといいよ、おめかしだってしてるんだし」


笑って指差された俺。テルヨシ様の言うように確かにめかしこんでいたのだが、「おめかし」といわれるとコレがなんとも恥ずかしい。

思わず俯いた俺をまた笑う彼が、ちょっと憎くなってきた。ち、ちくしょう……


今日は一般のところに遊びに来たから皆それぞれ私服を着ている。

まあ遊園地なんて"館主"のところの息子ばかり来ているのだから気にしなくてもいいのだけれども、それでもまあせっかく遊びに

来たのだからと"館主"様たちが計らってくれたのだ。詳しく言えばテルヨシ様の計らいだろう。


俺はまだメイドの給料もさほど溜まっていないし、館に持ってきた私服は汚いと捨てられてしまった。

だから特別にカズキ様のお古を頂いたので、この真冬にアロハシャツ。それにぶかぶかのズボン。

まあ流石に寒いからとその中に長袖のインナー、水色と白のストライプのニット帽。

冷静になってみれば妙な格好だったが、今の俺は冷静じゃないからいいだろう、うん。

レッドは黒のジャケットに胸元まで開いた白のYシャツ。簡単だがタッパとガタイの良さでそれなりに見栄えしている。

アリタもジャケットにシャツ。

まあこれはいい。


それにしても……



「一人おめかしの仕方間違ってる人がいますけどね……」

「俺のことですか、"ゴルゴ"さん」


ぎろり、とレッドよりも高い所から俺のことを見下す鋭い目。

そんな男はおめかしとは程遠い格好、オイルやらなにやらで薄汚れた橙色のツナギを身に纏っている。

おいおい、子供達が怯えてますけれども。

彼の横を子供達が通りすぎようとするたびに、目を引ん剥いて激しく体を震わせている。そりゃあそうだろう。怖い。




「ツチダさぁ、私服ないならウエダに言えばよかったのに……」

「俺、メイド一時期辞めてた時工場で働いてたんで。私服といったらコレしかなかったんです」


答えになってない!

思わずつっこもうとしたが、それを悟られたのか口を開こうとした俺をツチダが睨みつける。こ、怖い。

なんでこんなに殺気立ってるのかがわからない。この男はいつもこうなのだろうか……




「ま、本人がそれでいいっていうならそれでいいけどね。

 とにかく皆楽しむんだよ、って俺が企画したわけじゃないんだけど。

 それじゃ行くよリョウ」

「あ、はい! それじゃあ……」



いつもの黒コートの後ろを追いかけて、リョウが駆けて行く。



「じゃあ俺たちも、行きたいところがあるんで」

「それじゃ」



アリタも笑顔を浮かべて会釈をし、無表情のツチダを連れて歩いていく。


それぞれが、それぞれの目的に向かってばらばらと行ってしまう。

残されたのは俺たち二人。ぽつん、という表現が一番正しいだろうか。




「……みんな行ってもうたねぇ」

「あ、ああ。案外みんな勝手にいっちまうんだな……」

「ま、企画した奴がおらんのやから仕方のない話やろうなぁ」



いつの間にかヨシダさんになったレッドが、冷めた目線を二組の背中に追わせている。





そういえば、車の中ではウエダの心配、遊園地に着てからは初めての興奮。

そのせいで気づかなかったが、思えばこいつと二人きりになってしまうじゃないか、と今更気づいてみた。



「……」

「ゴルちゃん?」

「じゃ、俺も乗りたいものとかあるから!」

「あはは、遊園地始めてきて乗り方もよう知らんような奴がよく言うわぁ。

 一緒に行くぞ、ん」



そう言って、レッドが俺の手を握る。

でかく、骨張った手がありえないほどの力で握り締めてきて、離そうにも離れず。

言葉も無く抵抗する俺なんか無視し、笑顔を崩さないままぐいぐい引っ張るのにも抵抗できず。



「は、はなせぇぇぇ!! いい、いらない! 一人でいくっつーんだよ!」

「あはは、ゴルちゃんジェットコースター乗ろうなぁ!」



青筋たてた笑顔の男。

横を通り過ぎる子供が、また「ヒッ」と声を上げて体を震わせていた。


















レッドの作戦は周到だった。


傍から見ればジェットコースターというのは楽しそうなもんなのだが、初めての俺にとっては辛いものだった。

何度か乗れば慣れてきたかもしれないが、初めて体験する速度に体がついて行けず腰が抜けて足がふらふら。

吐き気を催した俺を今度はティーカップに。

そこでレッドがものすごい勢いでカップを回すものだから、もれなく俺は吐き気を催し休憩せざるを得なく。


仕方がなしに二人きりのベンチで気分を落ち着かせている、ということで今に至る。







「うぇー……気持ち悪い」

「大丈夫?ゴルちゃん」

「うるせぇ、どうせ楽しんでやがるくせに」

「あはは、ばれたか」


口を抑えてうめく俺を見て笑うレッド。そのにやけ顔が嫌にむかつく。



俯く俺に対して、レッドは空を見上げている。

青い、青い空。冬にしては珍しく高い空で、白い雲がふわふわと浮かんでいるそれを楽しそうに眺めているレッド。

時折吹く冷たい風がソイツの髪を揺らす。

茶色がかったぱさつく髪。ほめられた髪質ではないが、俺のものよりはよっぽどいいような気がした。


なんとなくレッドの髪質観察なんてしていると、それに気づいたのか目が合った途端に笑う。

目を逸らす前にその口が開く。大きな口だ。


「ゴルちゃん、高校行ってたやろ? そん時どんな髪型やった?」

「な、なんだよ急に……」

「や、なんか俺の髪見てたからそんなに気になんのかなーと思ってな」

「答えになってねぇよ、別に高校ん時は普通に丸刈りだったけど」


普通に、の言葉なのかそれとも丸刈り、という言葉のせいかわからないがそれを聞いた途端レッドが腹を抱えて笑い出した。

でかい口を最大限に開いて、でかい手で腹を抑えて体をくの字にして笑う。

リアクションも何もかもが全部でかくて、やっぱり何かむかついた。決して俺がチビだからとかそんなんではない。



「笑うなバカ!」

「だ、だって予想通りやったし……ヤバイわー、ゴルちゃんほんまええわー」

「うるせぇな! ったく!」





しばらくはレッドの笑い声ばかりが響いて、他は何も聞こえなかった。騒がしいけど静かだ。

それがようやく落ち着いた頃には遠くから聞こえる子供の声しか聞こえなくなって、それでもやっぱり静かに感じられる。


静かになったその後は、ようやく気分の落ち着いた俺もレッドと同じく空を見上げた。

空が青い。高く、高く、俺たちになんかとっても届かないところにある。

まるでテレパシーでも飛ばしたかと勘違いするようなタイミングでレッドが空に手を掲げ、限界までいったところで笑いながらそれを下ろした。

バカだ。本物のバカ。

そのバカと同じ事を考えていた俺も、バカ。



かつて俺はこの空を見たことが一度も無かった。

青空なんて何度も見ている。26年生きてきて、ほぼ見上げた空は青空だった。

けれどもこの空は見たことがない。

その先に何かがあるのではないかと希望を抱かせるようなこの空を、一度だって見たことがないのだ。






『ごめんね、松本君』



そう告げた所長が取り仕切る事務所の窓からはこんな空は見えなかった。

しわくちゃのYシャツにネクタイを身に纏い、眼鏡を掛け、ろくに床屋もいかないぼさぼさの髪を掻き毟りながら

電卓を打ち、紙の上に短い鉛筆を走らせていたあの頃の、あの窓。

所長の背中、一面にずらりと並んだ窓からは大量の光も入り込んできたし空だって十分に見えていたはず。


だがその空にその先は無く、別に見なくてもいいかと紙に書かれた数字ばかりを目で追っていた。









「空……たけぇ……」



呟いた言葉にレッドが笑った。もう笑われたことなど気にならなくて、俺もまた手を伸ばす。

もちろん届くはずがない。

限界まで伸ばしたその腕をレッドが支えた。まっすぐに伸ばされてブレることもないのに決して届くことはない。

どうやってもあの空には届かないのだ。

俺の背が小さかろうがレッドの背が大きかろうが関係ない、どちらの手も届かない。

どうやってもあの空には届かないのだ。


同じ場所にいるのに想いどころか声すら届かない者がいる。

想いは通じたのに今では届かない場所にいる者がいる。


それと同じく、この手はあの青い空には届かない。

青い、青い、あの空の先にある何かは確かに見えるのに一向に届く気配を見せない。見えても届かなければ仕方がないだろう。



「届かんなぁ」

「届かねぇ」

「もっと、高いところにいったら届くんかなぁ」

「かもな」



ふ、とお互いに笑いあう。

そんな所はどこにもないだろう。

きっとあの空に届く場所なんて、どこにもないに違いない。



「あそこに行くことは出来るかもしれんけどね」

「どうやって?」

「それはそれぞれだけどな。あそこに行ってみたいと思わんか?」


どうやって、と聞こうとしてやめた。

レッドの支える手がなくなり、がくりと沈むのと同時に口が閉じてしまったからだ。顎が痛い。

講義しようと振り返ったそこには時折しか見せない真面目な顔をしたレッドがいて、また口を閉じる。

さわさわと風が頬を撫でていく。優しいのに、やっぱり冷たいそれを痛く感じた。


しばしの沈黙はもっと痛かった。胸がぎゅうと締め付けられるのがとても痛い。

耐えかねて口を開いた俺を見て、レッドの顔が少しだけ緩んだような気がした。




「あそこって、天国か?」

「あはは、せやなぁ」

「死ぬってことかよ」

「かもね」



「よ」とおどけたように口先を尖らせ言ってベンチからぴょんと下りると、レッドはベンチの背もたれの後ろの

花壇の淵に飛び乗った。

レンガ造りのそれを笑顔のままよたよたと歩いて行く。

やじろべえのように広げた両手をぐらぐらと揺らせながら、前へ前へ。行き過ぎたと思ったところでくるりと

身を翻しこちらに帰ってくる。

不安定。

今にもでかいその体が落っこちそうで、こちらが不安になってしまう。




「天国って近いんやで。首筋ちょんぎったら血がぴゅうぴゅう出ておっちぬ。

 縄で首吊ってもおっちぬ。ガス思いっきり深呼吸、はいおっちんだぁ」

「そんなもんか」

「そんなもんよ。あんなところ、すぐに行けんのよ。なのにここで手を伸ばして、他の連中も

 空を飛びたいとか言い出す。ライト兄弟かて崖から落ちればすぐに夢なんて叶ったわけよ」

「その例えはどうかと思うけどな……」


また「あはは」とレッドが笑った。全く不謹慎なネタである。

だが、まあ納得できると言えば納得できる話。確かにどこかの誰かが想像した「天国」というのは

案外近くにあるのだ。

その安易な考えを否定するために作られたのが恐らく「地獄」なんだろうが、そんなものは罪人が死んだからといって

良い目にあうのが悔しい者の作った妄想。

天国は苦しくて、苦しい場所から逃れられないと決め付けたものが作り出した妄想。

人が作り出した妄想。

妄想なのだから、遠くにあるはずなどない。



「ほんま近くよ。天国なんて。あの空の先にある天国は、本当は目と鼻の先にあるんやなぁ」



ぴたりと片足立ちのまま止まり、ぶらぶらと片方の足を揺らしたままレッドが呟くように言う。

自嘲気味に放たれた言葉がまた俺の胸をぎゅうと締め付けた。



「目と、鼻の先」

「目と鼻の先。ゴルちゃんはそこに行ってみたいと思う?」

「さあ……でも、空には行きたい」



青い、青い、空。

そこに行きたいと言っても、やっぱり俺が行きたいのはその先にある場所なんだろう。

レッドはそれがわかってるのか、それともわかってないのかよくわからないような態度でにこにこと笑い

手招きをした。

仕方がなく俺もベンチから立ち上がり、レッドが立つ場所まで歩いて行く。


逆光のせいでレッドの顔がよく見えない。でも、にこにこと笑っているのはわかる。

コイツはいつでも笑っているからそうに決まっているのだ。

ヨシダさんの時だって、レッドの時だって、そのバカそうな笑顔は変わらない。いつだって無表情と隣り合わせの

笑顔を浮かべている。



「ゴルちゃん、天国に連れて行ってやるわ」

「バカなAV男優みたいな台詞だ」

「阿呆。そんなんと違うわぁ」



笑いながらレッドが手を伸ばしてきて、仕方がなくため息をつきながら手を伸ばす。

俺が伸ばしたのを確認した途端それをぎゅう、と力強く握り締め引き寄せられた。

慌てて花壇に片足を掛け勢いのまま丁度レッドの隣辺りの場所に乗る。片足だけのために体がふらついてしょうがない。

声を上げて笑ったレッドを睨み返してやろうした。


そう思い振り返った瞬間、俺は何かに体を包み込まれていたのだ。

暖かい、熱い。どちらかわからない。

何かは俺がもぞもぞとするたびに、逃がさんとばかりに強く強く俺の背中を引き寄せる。

何かなんて、もう正体はわかっていたがわかりたくないのだろう。俺はまだその何かから逃げようとしている。



「離せよバカ」

「こうでもせんとお前また逃げる」

「落ちる」

「一緒に落ちようよ。俺ゴルちゃんとならどうなってもいい」

「ふざけんなよ」


声は荒げず、両手で何か、レッドの胸を押し返そうとするのにできない。

もしこれが普通の地面だったら、いくら俺が小柄と言ってもこいつぐらい簡単に突き飛ばせる。

だけれども、この不安定な状態に無意識に力が弱くなってしまい挙句の果てには支えを求めるように

自ら抱きつきに行ってしまうような始末。

情けなさとどうしようもなさを込めて胸を叩いても、不思議とレッドの体は安定さを保ち俺の体を支え続けた。



「ここが天国やろ」

「ちがう」

「お前が言う空ってここやろ」

「ちがう……」



首を横に振る俺の頭を、レッドがでかい手で包み込む。顔を胸に押し付けられて息が苦しい。

苦しい。

息が苦しい。

ぎゅう、と締め付けられる胸が苦しい。



「一緒に天国に行こう、ゴルちゃん」

「いかねぇ!! いらねぇ!! 天国なんかどこにもない!!」



ばたばたと暴れる俺をレッドがこれ以上に無いくらい強く抱きしめた。

苦しい。

苦しい。

レッドが笑った。きっと、笑った。

見てもいないのに何故かわかった。




















「好きや」

























後ろから抱きしめられる。

初めてのことじゃないのに、いつもより何倍もの心地よさを感じた。


四面のガラスの向こうには暗闇とそこに幾つも輝く星たちが見える。

俺を抱えるレッドが少し身じろぎするだけでかたんと揺れる不安定な箱の中は寒かったが、強く抱きしめられる度に

そんなことはどうでもいいと感じるようになっていった。


観覧車。人生初。


レッドが俺を人形のように抱きしめて、首元に顔をうずめている。鼻息がくすぐったい。

何もしない。何も話さない。何も起こらない。

ただ観覧車が回るだけ。



「……ゴルちゃん。お空がもうすぐそこ」


ようやく開いた口が放った言葉も、なんでもない。くだらない。


「ああ」

「ドアこじ開けて、飛び出したら天国にも行けるんやで」

「バカ」

「ここは空に近いし、天国にも一番近い」




その言葉通り、なのだろう。

きっとこの胸の中が天国。これ以上に近いところがどこにあるのだろうか。


俺はわかっていた。ずっとわかっていた。

きっと、わかっていたのだ。



「ゴルちゃん、逃げよう。俺が何とかする」

「何とかって、どうするんだよ」

「京都、俺の生まれ故郷なんやけどな。叔父さんがおんねんけど、その人に頼めば

 三流以下かも知れんけど仕事紹介してもらえると思う」

「何言ってるんだよ。メイドやってる奴がんな」


言おうとすると、静止の合図かぎゅうと抱きしめる手が強くなる。

しぶしぶ口を閉じると、レッドの笑い声が聞こえた。「あはは」と、笑っているがどこか物悲しいそれが

箱の中で響く。



「俺妹おるんや。実はな。茜っていう」

「妹……?」


兄弟がいることなんて別になんでもないが、妹?

眉間にしわを寄せ、聞き返すとレッドがまた笑った。まさか、こいつは。


妹を持つのは"館主"しかありえない。

女性に認められた"館主"しか娘を授かることは出来ないのだ。一般庶民にはありえない。

そうなると、この目の前の男の正体が何なのかということになる。

まさか、の先ははっきりとは言えない。



「俺貧乏"館主"の息子だったんや。ふっつうなぁ、三流の"館主"って滅多にヤれへんのやけど

 運がよかったんやな。母ちゃんがベタ惚れ。あっはっは」

「貧乏……」

「メイドもいなけりゃ、館もオンボロ。偶然企業がうまいこといって何とか"館主"になったような奴が

 俺の親父。親戚なんかは結構うまくやってるらしいけどなぁ、代表叔父さん」

「だから、なんでコネもあんのにメイドなんかやってるんだよ」

「金が必要やったから」




冗談みたいな一言にも感じられるが、今度は笑っていない。

身を捩じらせて振り返ろうとしてまた抑えられた。どんな顔をしているか全く見当がつかない。





「メイドやってたらサラリーマンやってるよりずーっと儲かるしなぁ。

 セックスしただけでウン万円なんて、サラリーマンなんてやってられんつーの」

「だから、さ」

「俺、"館主"になるのが夢やった。金溜めて"館主"になって、それで」




観覧車が回る。

丁度頂上に到達しただろうか。

きっと今が一番空に近い。

こんな高い所に来ることができるだなんて思っても見なかった。世の中は広くて、それでいて高い所にある。

レッドが普段生活していて見ている視線でさえきっと俺よりも高いんだろうな、と思っていたのに

ずっとずっと高い所にいけるのだ。



届くのかもしれない。

空の先にある何かに、もしかしたら届くのかもしれない。

ここから手を精一杯伸ばしたら届くのかもしれない。






「妹に、もう一度会いたかった」


















レッドは「一週間後までに準備を終らせておく」と笑いながら言った。

「いいのか」と俺が聞くと、あっけらかんと笑いながら「ええよぉ」と言った。


俺たちのメイド退職計画はあっさりと決まり、どうしてケンたちやオザワたちが同じ事をしないのだろうと

聞いたら、みんなそれができないからとよくわからない答えを返された。

ただ皆怖いと思ってるから、逆にやめられないのだ。それだけなのである。

ケンは前の"館主"に酷い目にあわされたからもうカズキ様の館を出たくないんだそうだ。

オザワたちは……お互いを幸せを願うから、逃げ出せないのだ。


それに、もしメイドを辞めて、行く当てもないまま逃げ出して社会のゴミになったらと考えるから怖いから

みんなみんな逃げ出せない。


それをわかっている上でどうしてレッドが逃げることを決意できたかどうかはわからなかったけど、

俺はきっと嬉しかった。

嬉しくて、それでいて何か悲しかった。




「本当に諦めるのかよ、妹」

「しっつこいなぁ、お前もうジュンちゃんとちゅーとかすんなよ」

「そういうので誤魔化すな!」

「な、キスしよ」

「だからお前なぁ……」



だけど、今は。

今はただ、空に一番近いところでコイツと繋がっていることばかりが嬉しくて他はあまり考えられなかったのだ。

過去と未来の自分が怒るかもしれないくらい自分勝手な俺は、呆気なくレッドのいわゆるキスに誤魔化されてしまう。

バカみたいだ。本当にバカみたいで、くだらない。


今はそのバカみたいでくだらない行為に酔いしれていることが一番幸せだった。








next.......